こんなご質問をいただきました。
「主人公が死んだと思っていたら、生きていた」というのは、どんでん返しタイプで言うとどこに属するものでしょうか? 敵が死んだと思っていたら生きていた、というパターンの亜種ということでしょうか? それとも、どんでん返しにはならないのでしょうか? (PN 水戸のご老公)
ぴこ蔵です。
素晴らしい! いい質問ですねえ! さすがはご老公様じゃ、ありがとうございます。まず結論から申し上げますと「主人公は死んだと思ったら、実は生きていた」というパターンでは、「どんでん返し」にはなりません。
もちろん、ストーリーの分析には「これが正解!」というものはありませんので「主人公のどんでん返し」という分類も条件次第ではあり得るのかもしれません。
しかし、ぴこ蔵流には「どんでん返しから物語を作っていく」という独特の枠組があります。ぴこ蔵流の物語創作術における「どんでん返し」とはストーリー全体の構造を決定付ける「扇の要」なのです。
そんなぴこ蔵流の手順に沿って創作しようとすると「主人公が死んだと思っていたら、実は生きていた」という仕掛けにはどんでん返しのタイプとしては奨励しづらい理由があります。
なぜでしょうか?
「敵のどんでん返し」においては、基本的にここからクライマックスが始まり、ここで回収することを前提に伏線が敷かれます。(「目的のどんでん返し」では少しタイミングがずれます)
どんでん返しは、オープニングにもエンディングにも強い影響を与えるターニングポイントなのです。
そんなぴこ蔵流の手順に沿って創作しようとすると実例の仕掛けを「どんでん返し」であると認定するにはなかなか難しいものがあります。
その理由が2つありますので説明していきましょう。
どんでん返しにならない理由その1
その理由の一つは、どんでん返しが成立したその瞬間、ストーリー上では新たな問題が発生しなければならないということです。
どんでん返しが発動した時、信じていた世界の枠組ががらがらと崩れ落ち、そこまでの流れとは全く異なる展開が始まるのです。
突然、死んだと思い込んでいた怪盗が姿を現したら名探偵はとにかく気を取り直してそいつを捕まえなければならないわけです。必死に探していた目的物が実は存在しなかったことが分かったら探していた人は、これからどうするかを早急に考えなければなりません。
新たな問題の発生。だから読者もパニックに襲われるわけです。とんでもない展開に焦ってしまうわけです。こうやって枠組を破壊し、新たな危機が訪れることによってクライマックスの幕をドラマティックに引き開けるのもどんでん返しの重要な役割の一つなのです。
ところが、「主人公が死んだと思っていたら生きていた」ということになるとそこまでは概ねいい感じで(笑)危機が世界を覆っていたのに、一気に逆転楽勝ムードに支配されてしまいますよね。
その後の展開が「これで主人公が勝てる!」というイケイケモードに突入してしまうわけです。つまり……
クライマックスシーン、悪事の達成を前にして喜ぶ悪党。しかし、その時、死んだはずの主人公が現れた!
「お、お前は死んだはずでは……」
「馬鹿め! 悪事を粉砕するために、俺は地獄から蘇ってきたのだ」
……と、いう感じの流れになります。
主人公が死んでいなかったことによって一番びっくりするのは「敵」である対立者であります。で、問題はこの後です。たいてい、生きていた主人公の活躍により悪は滅び、問題は無事に解決されるわけです。
このように、主人公の目的達成の障害になっていた問題が解決される場合、そのどんでん返しは「敵どんでん」の亜種でも「目的どんでん」の亜種でもありません。
分かりやすくするためにあえて名前をつけるとすれば、主人公の「切り札」ということになります。切り札」とは物語のクライマックスにおいて主人公が問題を解決するための方法です。
たとえば、主人公が何かのトリックを用いることにより、「主人公は死んでしまった」と敵を油断させておいて倒すわけです。
『主人公が死んだと思っていたら生きていた』という、形としてはどんでん返しに良く似ている仕掛けですが、「切り札」の機能や目的は大きく違います。
「どんでん返し」が難題を発生させることを目的とするのに対して「切り札」は問題解決を目的とするからです。
主人公の生還が「問題解決」を促すケースが多いことを考えると、『主人公が死んだと思ったら、実は生きていた』という仕掛けは主人公にピンチをもたらす「どんでん返し」としては用いにくい、ということが言えると思います。
どんでん返しにならない理由その2
もう一つの問題は読者の心理的な抵抗です。
「主人公が死んだ」という前提を読者の心情に即して考えた場合、どんでん返しとして成立させるためにはあまり効き目があるとは言えません。
なぜなら、「主人公の死」というトリックを読者が完全には信じないからです。そもそも読者は、常に、主人公が死なないことを前提に読んでいます。本当に死んだ場合でも最後の最後まで疑っています。せっかく感情移入した(つまり愛している)主人公の死をなかなか受け入れてくれないのです。「絶対生き返ってくれるはず」と思っています。
名探偵シャーロック・ホームズは宿敵モリアーティ教授と格闘した挙句滝に落ちて死んでしまったということになっているわけですが、これをよしとするシャーロッキアンは世界中に一人もいないと思います。
「ホームズが死ぬわけがない」のであります。一時的に行方不明になっているだけで必ずまた登場すると信じているのです。愛読者と言うのはそういうものです。あしたのジョーは死んだのではありません。「燃え尽きて灰になった」のです。ですから、ライバル力石徹のお葬式は盛大に開かれましたがジョーの葬式は行われていません。
人気のある歴史的ヒーロー、例えば、源義経や坂本竜馬もののドラマをやる時は「彼らを殺さないでくれ」というメッセージが日本中から届くほどであります。
読者は主人公の死を望みません。したがって、死んだと言われる主人公が「実は死んでいなかった」というどんでん返しを発動したところで読者を驚かせる効果は薄いものになります。「ほらやっぱり」という事になってしまうからです。
読者はそうなることを信じて待っていたわけですからある意味で当然の展開にすぎないのです。自分を投影し感情移入している読者はなかなか主人公の死を受け入れないのであります。
主人公が生き返った時点で読者は喜んではくれるが、あまり驚きはしないわけです。なぜなら読者は、そもそも前提である主人公の死を全く受け入れていないからです。むしろ常に主人公が生き返ってくることを望み、心のどこかでそれを待っているのです。これでは「衝撃のどんでん返し」とはなりませんね。
結論でございます
ぐだぐだいろんなこと書きすぎたので本論だけもう一度、整理しておきましょう。
Q:「主人公のどんでん返し」はどんでん返し足りうるのか?
A:以下の理由から、基本的に私は「どんでん返しのパターン」としてはお勧めしません。
どんでん返しの成立要件は以下の通り
(1)どんでん返しはクライマックスの直前に起きる
(2)枠組みを壊し、新たな次元の問題を提示する。
(3)クライマックスに導入する。
まとめますと、このどんでん返しが成立するには、主人公が生きていたことによって枠組みが壊れ新たな問題がが発生するかどうか、が大きなポイントです。
しかし、大体の場合「主人公が生きていた」という状況は、そのことによって敵をやっつけるなど問題解決のために使われることが多いため、むしろこれは「切り札」であると言えるでしょう。
また、これが物語の最後に来れば「意外な結末」となります。どんでん返しではありません。
主人公とは何か? という定義も大事
例えばトマス・ハリスの小説「レッド・ドラゴン」の中心人物はまぎれもなくレッド・ドラゴンですが、主人公というのは、読者と立場を同じにして同じ謎を解明し、同じ問題を解決していこうという方向性を持っている存在なわけです。
ところがレッド・ドラゴンは謎を撒き散らし、問題を発生させるばかりです。
したがって、レッド・ドラゴンは主役ではあるが主人公ではないと言えるのです。
読者がストーリーの中である問題を追いかける上で、同じ運命を感じ自己を投影し、物語に身を任せるためのガイドが主人公です。「主人公が死ぬ」というトリックを使う場合、その間は主人公の視点は消失するので、主人公の一人称だけでは絶対に語れません。
主人公の視点が消えた瞬間に物語が終わるわけですから。
そんな時はホームズに対するワトソンのように語り手を設定して、主人公の視点が消失しても大丈夫なようにするわけです。
この高く厚い壁に果敢に挑戦するのはすばらしいことだと思います。トリックのひとつとしてこういうスタイルはあるのでしょうが、ただ、作り手側から見た場合はなかなかむずかしいのであります。
そんな理由で「主人公が死んでいると思ったら生きていた」は、汎用的などんでん返しのタイプとしては積極的に勧めにくいと言えます。